
AIに小説を、短いやつを書いてもらうってのは定期的に目にすることがあって「なかなかおもしろい」的なシメ方になってる(ていうか面白くなかったものをわざわざ記事化する人もいないと思う)。
ならおれならどうするか。
というわけでプロンプトは内緒ですが発表してゆきたい。

AIに小説を、短いやつを書いてもらうってのは定期的に目にすることがあって「なかなかおもしろい」的なシメ方になってる(ていうか面白くなかったものをわざわざ記事化する人もいないと思う)。
ならおれならどうするか。
というわけでプロンプトは内緒ですが発表してゆきたい。
少し前に、こんな話がタイムラインを流れてきた。
『モズのはやにえ』という言葉をネームで出したら編集部から「これって何ですか?僕も知らないし編集部の人間みんな知らなかったので別の言葉に変えてください」と連絡が来て震えた
- [知らない=存在しない]
文句言う前にまずは自分で調べてほしいと思う。編集者なら余計にそう思う。
2026/05/22 14:33
ライターが、作品に「朝食の目玉焼きを作る時フライパンに水を入れて蓋をして蒸す」という描写を入れたら、ディレクターから「目玉焼きはそんな作り方しません」と言われた話
最近この「知らないこと自慢」みたいなの多い。「これ常識だよ知らないの!?」って世界も酷いと思うけど、マジで「愚民どもに英知を授けてみせろ」だなあ。
2026/05/22 14:16
ひとつは、マンガのネームで「モズのはやにえ」という言葉を使ったら、編集者から「知らないので別の言葉に変えてください」と言われた、という話。 もうひとつは、目玉焼きを水で蒸し焼きにする描写を書いたら、「そんな作り方しません」と指摘された、という話。
どちらも、調べれば数秒で出てくる。実在する言葉だし、実在する調理法だ。
でもそこでは「自分が知らない」が、そのまま「だから存在しない」「だから間違い」に変換されていた。
笑い話のようでいて、これ、けっこう他人事じゃない。仕事をしていると、形を変えて何度も出会う。
昔は逆だった。「えっ、そんなことも知らないの?」という圧が普通にあった時代がある。知っている側が強くて、知らないことは少し肩身が狭かった。
今はだいぶ変わってきて、「知らないからって責めるのはちょっと違うよね」という空気になった。これはいいことだと思う。
ここで一つだけ、正直に言わせてほしい。
知っているからって偉いわけじゃない。知識は振り回すものじゃなくて、共有するものだと思っている。「知ってる側」が威張るのは、昭和の圧の裏返しでしかない。
——ただ。それでも、知らないって、時々ちょっとだけ恥ずかしい。これは僕自身の話でもある。知らない言葉に出くわして、こっそり調べて「へえ」と言うこと、わりとよくある。だから、知らないこと自体を責めたいわけじゃない。問題はその先にある。
こういう「知らないから否定する」って、何か名前がついてるのかなと思って調べてみた。
最初に思いついたのは ダニング・クルーガー効果。知識が少ない人ほど自分を過大評価してしまう、というやつ。
……でも、ちょっと違うかな?
あれは「自分の能力をどう見積もるか」という自己評価の話で、今回の「他人が知っていることを否定する」とは、少しズレている気がする。
それでもう少し探すと、もっと近いのが出てきた。
こっちの方がしっくりくる。「知らない」が、調べるスイッチじゃなくて、拒否のスイッチになっている状態だ。
不思議なのはここだ。
GoogleもAIも、「知らないことを知る」コストをほとんどゼロにした。指先ひとつで、たいていのことは確かめられる時代になった。
なのに、調べずに否定する人は、むしろ増えた気さえする。
たぶんこれは、能力の問題じゃない。姿勢の問題だ。「調べれば済む」という回路を、最初から持っていない(あるいは、使わないと決めている)人が一定数いる。
昔のデジタルデバイドは「使える人/使えない人」の差だった。でも今起きているのは、「使って世界を広げる人/使わずに立ち止まる人」の差だ。ツールはみんなの手の中にあるのに、開く人と閉じる人に分かれていく。質の違う分断だと思う。
さっきの現象、それぞれに一応の対処法はある。
並べてみて気づくのは、対処法の中身はバラバラなのに、結論が全部おなじだということ。
相手は、こちらの力では変えられない。
変わるとしたら、それは本人が自分で気づいたときだけだ。
これは少し厳しい話になる。
偏見と正面から戦っても、たいてい勝てない。証明しても、論破しても、相手の「知らない」は揺らがない。消耗するのはこっちだけだ。下手をすると、どちらかが傷ついて終わる。
だから、戦うより前に、まず場所を選ぶという手がある。
「逃げ」に聞こえるかもしれない。でも、勝てない戦に資源を注ぎ続けるより、自分の知識や工夫がちゃんと届く場所を選ぶほうが、ずっと戦略的だ。撤退じゃなくて、配置換えだと思っている。
ただ——場所は変えられても、自分自身はどこへ行っても連れていく。環境を変えるのと同じくらい、「自分がどういう人間でいるか」も、たぶん大事なんだと思う。
ここまで、否定する側の話をずっとしてきた。
でも本当に書きたかったのは、たぶんこっちだ。
知らないことに出会ったとき、それを「ありえない」と閉じるのか、「へえ、なんだそれ」と開くのか。その一瞬の反応に、その人がどういう人間か、けっこう出る。
「知らない」は、否定の理由じゃない。知るためのきっかけだ。
もちろん、全部を拾う必要はない。世の中、知らないことだらけで、いちいち全部に飛びついていたら身がもたない。興味が持てたものだけ、面白そうなものだけ、拾えばいい。
それでも、知らないことに出会えたとき、ちょっと嬉しくなれる側でいたい。
たぶん、それだけで、じわじわ差がつく。

※このブログは(珍しく)映画のネタバレを含みます。
いいか、聞いてくれよ。映画「Michael」を見てきたんだけどさ、これがもう、観終わった瞬間から頭の中がマイケル・ジャクソンでいっぱいになっちまって、もう何日経っても抜けないんだよ。
仕事中も、飯食ってる時も、風呂入ってる時も、ふと気づいたら頭の中でビートが鳴ってる。
これマジな話。
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マイクロソフトとの付き合いは、MSXから始まった。
子供の頃、パソコンといえばNEC、シャープ、富士通の三択だった。どれも魅力的だったが、どれを選ぶか決めることが子供には巨大な壁だった。数百円のプラモデルを買うのも必死だった自分には、本体価格も、メーカーごとに違うソフトの互換性も、宇宙に行くくらいのハードルだった。
そこにMSXという規格が現れた。メーカーを問わず共通仕様で動くパソコンを作る、という理念だ。御三家はMSXに参加しなかったが(富士通が1機種だけ出している)、価格は安かったし、何より「どれを買っても同じソフトが動く」という安心感が壁を下げてくれた。
当時、西和彦という名前は知らなかった。でもビル・ゲイツの名前は知っていた。その頃からMicrosoftのガチオタとして育ってしまった。MSX-BASICでプログラムを打って、動いたときの感動。その後はMS-DOS、Windows 3.1、95、98、XP、7、10……ずっと一緒にいた。
それが今、Macを買った。
自分でも少し驚いている。でも、正直に言う。Windowsはもう限界だと思っている。
続きを読む「ネットにネガティブな発言をすると、ネガティブな人や情報が寄ってくる」というのは、心理学的にも説明がつく話だ。これには『ネガティビティ・バイアス』という現象が関係している。人間はポジティブな情報よりもネガティブな情報に強く反応し、それを拡散しがちだ。結果として、ネガティブな発言をすると同調したネガティブな反応が集まりやすくなり、さらにネガティブな空気が濃くなるという悪循環が生まれる。
これはちょまどさんが書いた『ネットに愚痴を書くと愚痴る人が寄ってくる』という記事にも通じる話だ。あの記事を読んだ時、自分は「まさにその通りだ」と感じた。ネガティブなことを発信することで、それに共感する人は集まるかもしれないけれど、それが自分にとって心地よい場になるかは別問題だ。
(参考記事:ちょまどさんの記事)
私(ちょまど)が気をつけている、SNS運用5つの秘訣 ネガティブなことは発信しない | さくマガ
「愚痴などがあるときは、SNSやpublicなところでは発言しません。」これすごい大事。
2020/09/29 13:51
最近のSNSを見ていると、ネガティブな発言や批判がやたらと目につく。ゴシップ記事へのカジュアルな批判や、自分の嫌いなものをアピールする投稿。これらは確かにバズりやすいし、目立ちやすいけれど、その空気にずっと触れていると、なんだか心が疲れてくる。
そんな状況の中で、自分はあえて「ネガティブな発言はしない」と決めている。それは、自分の精神衛生のためでもあるし、誰かに無意識のうちにネガティブな影響を与えたくないという気持ちがあるからだ。
今、自分が持っているSNSはほとんど放置している。正直なところ、たくさんの「いいね」をもらっても、それが自分にとって本当に意味のある繋がりかというとそうでもない。自分が求めているのは、「気の合う人と会話のキャッチボールをすること」だからだ。
でも、2010年代後半くらいからSNSでの犯罪やトラブルが可視化されて、「気軽にお友達になってはいけませんよ」的な空気が漂い始めたように感じる。さらにコロナ禍での分断も重なり、一度SNSから距離を置いた人たちが再び戻ることは難しくなった。
自分も、一度SNS絶ちをしたことで、再構築が難しくなったように感じている。以前のように気軽に「この人と話してみよう」と思えなくなった。それでも、なんとなくSNSのアカウントは残しているけれど、そこに書く言葉が見つからない。
今のSNSは「面白いことを言えなきゃダメ」みたいな空気がある。みんながこぞってウケ狙いの投稿をする中で、何も言わない自分が取り残されているように感じることもある。でも、万人ウケを狙う必要はない。むしろ、自分の中の小さな範囲で向き合える人たちがいれば、それで十分だと思うようになった。
「人が安定して関係を築ける相手の数は150人程度」という有名な話がある。これはダンバー数と呼ばれるものだが、実際に心から向き合える相手はもっと少なく、せいぜい2〜3人が限界だと思う。家族や親しい友人だけで、すでにキャパオーバーになることもある。
自分もそうで、正直なところ、そんなにたくさんの人を大事にできない。だからこそ、ネットに発信する時には「不特定多数」を意識しすぎないようにしている。何百人、何千人を相手にしていたら、自分が疲れ果ててしまうからだ。
SNSでは「多くの人と繋がること」が良しとされがちだけれど、実際に心から向き合える相手なんて2〜3人が限界だと思う。家族や親しい友人だけで、すでにキャパオーバーになることもある。それなのに、ネットに発信する時は「数え切れない相手」が対象になる。だからこそ、自分の言葉がどこで誰に刺さるか分からない。
映画や本の感想を書く時にも、「つまらなかったら何も書かない」というルールを設けている。つまらなかった作品についてあえて言及することで、好きな人を不快にさせるリスクがあるからだ。逆に「良かったこと」は必ず具体的に挙げる。そうすることで、自分自身も作品の良さを再発見できるし、読んだ人にもポジティブな影響が与えられるかもしれない。
自分に関係のないことでも、感想や批判は当然出てくる。けれど、ノイズ出力マシーンになりたくはない。そんな時も、あえて何も言わないという選択をしている。どうせ世界にアウトプットするならば、ポジティブで有用で、誰かのプラスになるような言葉を届けたい。
とはいえ、ネットにはネガティブな話題が溢れている。カジュアルな批判や誰かを笑い者にする投稿が蔓延していて、「楽しい話題」が見つけにくいのが現状だ。それでも、自分の中で「今日はこんな良いことがあった」というポジティブな話題を見つけることはできるし、それを言葉にして発信していくことが、今のネット環境の中で自分を保つ手段なのかもしれない。
完璧にはできなくても、少しずつ。
これで世界は変わらなくても、俺の視界はクリアになるだろう、きっと。
そんな俺の閑散としたBlueskyはこちら。
ブログ書くの久々です。
久々に書きたくなるような事件が起きたからなんですけど。
何事もなかったというのもアレだけれども、2019年夏に急に味覚を感じなくなった俺は(確か濃厚カルピスを飲んだら味がしなくて気が付いたんだった)最寄りのギガント級ホスピタルにて発熱外来を受診したのだがなんの説明もなく小一時間隔離され、鼻に綿棒を突っ込まれたのであったが、これはきっとその当時の色々な出来事に起因するストレスが原因で味覚を失ってしまったのだろう。結果は陰性だった。
2019年の最初あたりは様々な弊害が俺を襲ったのだ。
で、時は流れて2022年夏。
ワクチンは3回接種したし、取り立てて具合が悪くなることもなかった。
で、昨日いきなりアイツの通知が鳴ったんですよ。
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